【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2018年4月29日

武井博 名誉牧師 著

 セルバンテスの名作、【ドン・キホーテ】という作品に、従者のサンチョ・パンサという、いささか間の抜けたコミカルな人物が登場します。まあ、その “足りなさ”故に、面白おかしい事件を巻き起こすという愉快な人物です。その間抜けなサンチョ・パンサが、こんな “正論”を口にする場面があります。【おめえが、どんな人間と歩いているか言ってみな。おめえがどんな人間か、言ってやるだ。】――――まあ、我が国にも、“類は友を呼ぶ”とか、“同じ穴のムジナ”などという表現があります。確かに、お互い、水と油の間柄では、一緒に仲良く行動する、と言っても、なかなか呼吸が合わないでしょう。あのひょうきん者の”弥次さん”と“喜多さん”にしても、まあ“似た者同士”の名コンビだから、二人三脚で、次々と楽しい笑いを巻き起し、読者を喜ばせてくれたのです。
 ところで、最近、日本の最高の知性、最高の高学歴を誇る省庁でも、そこに集っている秀才たちが、“同じ穴のムジナ”と言ってもいい程気が合う人たちばかりという印象を受けます。まず、共通して“記憶力”が極端に悪い”という点が目立ちます。「記憶にございません」と言いさえすれば、証拠の記録文書が出てきても、「自分の記憶がない方が正しい」と言わんばかりに、「記憶喪失」を武器に逃げ廻っています。
 記憶がないということは、“事実”がなかった、ということにはなりません。「事実はあったかも知れないが、自分の記憶ははっきりしないので、ごめんなさい」と言うのなら、わかるのですが、、、、、。「この私に記憶がないのだから、その“事実”はなかったのだ」と、言わんばかりの論法には、ただただ呆れてしまいます。
 さて、サンチョ・パンサの言葉に戻りますが、私たちが、もし彼から「おめえさまはどんな人間と歩いているか言ってみな」と 言われたら、何と答えたらいいでしょうか? 躊躇することなく、「勿論、御子・イエス様とご一緒ですだ!」と答えたいものですね。「それは、どんなお方ですかね?」 と、サンチョに問われたら、「わたしの罪のために、十字架上で死んでくださった救い主なんですよ」と、いつでも答えられる者でありたいものです。そうすれば、サンチョ・パンサは、「ほらま、大したもんだ。おめえさまは、まちげえのねえ人だ」と、太鼓判を捺してくれると思います。
 使徒パウロは、【ビリピ人への手紙】の3章6節で、過去の自分を【熱心の点では、教会の迫害者】とユーモラスに語っている所があります。それは、彼の謙遜の表現であって、それ程に、以前は、“自分を神として生きてきた傲慢この上ない者だった”、という 悔恨の気持ちをこめたやや、コミカルにさえ聞こえる立派な“啖呵”です。しかし、回心をした彼は、あらゆる苦難を乗り越えて、命がけで、謙虚に、熱心に、イエス様を宣べ伝えて回った最大の使徒であったのです。
 私たちも、誰の前ででも、即座に“私は神の御子イエス様によって、罪赦された者です”と名乗れる者でありたいと思います。ハレルヤ! 。