【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2018年5月27日

「 N・フェニックス 」

私の甥っ子は、今、騒がせている日大アメリカンフットボール部の選手だった。と言っても、僅か一週間の選手生命で、入部一週間でタックルを受け、肋骨骨折の大怪我。恐ろしさの余り病院で震えていたと言う。今思えば、それは幸な事であったのかもしれない。

パワハラで追い込まれたとは言え、自らの非を認め、カメラやメディアの前で「言い逃れ弁明会見」ではなく、まっすぐな「謝罪会見」を行ったあの若者こそが、日本大学フェニックス・アメリカンフットボール部のスピリットではないだろうか。リスクも顧みず、逃げ隠れもせず、皆の前で真実を語り、自らの行為に対しての心からの謝罪に専念した。記者から多くの質問を受けながらも、終始、監督・コーチ・大学を非難する事も言い訳もなく、自らの謝罪に徹した青年の態度は見事であった。勿論、だからと言えあの様な行為が許される訳ではないが、全責任を取る彼の決意と真摯な思いは日本中を感動させた。この様な若者がこの国にいる事を誇りとさえ思う。「自分には、もうアメフトをする権利(資格)はない」と明言されたが、何と、他大学から彼や部員達を受け入れる話さえ上がっている。スポーツを愛するが故に、持てる全てをかけ、日々、切磋琢磨する若者をあの様に苦しめ、その将来を閉ざす様な事があってはならない。プロの相撲やレスリング界だけでなく、アマチュアスポーツや政界に於いてさえ次々と浮上する「パワハラ/セクハラ」問題。今こそ、私達自身が、あの青年の様に真実と覚悟をもって立ち上がり、この社会から廃絶しようとしなければ、同じ事が再び繰り返され、犠牲者は後を絶たないであろう。

長いカナダでの生活から帰国後、ある社長さんがTVで「謝罪会見」をしているのを見て驚いた。確かに頭は下げているが、その謝罪内容が、皆一貫して「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」である。「謝罪」とは世間を騒がせた事なのか?それが罪・過ちなのか?と思わざるを得ない。そうではないはずである。自ら犯した罪・過ちを潔く認め、あの青年の様に、自らの罪と非を言い訳なしでストレートに謝る事こそが謝罪ではないのか。私達大人達は、ひとりの青年に本当の謝罪と、責任をもって生きる生き方を教えられた。

聖書は、全ての人は罪を犯したと語る。しかし同時に、人が罪を犯した時、何をすべきなのかという危機管理をこう伝えている。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺く事であって、真理は私達の内にない。もし、私達が自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての不義から私達を聖めて下さる」(ヨハネの第一の手紙1:8-9)。ダビデが神に用いられ、サウル王が退けられた理由がこれである。日大Phenix(フェニックス)とはギリシャ語で「不死鳥」の事である。神の前に、自らの罪を悔い改める者を神は赦し、その罪から聖めて下さるだけでなく、再び舞い上がる事のできる翼を与えて下さるのである。青年よ、負けるな!再び舞い上がれ!