【横浜カルバリーチャペル】 天の窓
     
2018年9月30日

武井 博 名誉牧師

  私は初めて知りました。太平洋戦争の末期、日本の若い兵士が、ベニヤ板の小舟に爆弾を積み、米軍の巨大な戦艦に突撃して、自らも死ぬ、そんな特攻隊があった、ということを!普通、特攻隊と言えば、航空機で敵の戦艦に体当たり攻撃をして、敵艦にダメージを与える部隊だ、と理解していました。
  ところが、この度「ベニヤ舟の特攻兵」(豊田正義著・角川新書)という本を読んで、ベニヤ板の小舟で敵艦に突撃する“特攻隊”があったことを初めて知りました!明治大学の学生であった菅原寛さんという方は、学徒兵として、陸軍歩兵隊に入隊しました。そして、1944年に、「決死生還を期せざる要員」という兵員の募集があり、悩みに悩んだ末に、「志願しよう」と心に決めました。「決死生還を期せざる要員」とは、二度と生きて帰ることをしない“決死隊”の若い兵員のことです。その要員になった菅原さんは、広島県の江田島の海軍基地に配属されたのです。陸軍に入ったのに、海軍基地に送られると知って菅原さんは驚きました。ところが、そこは、陸軍と海軍が合同でベニヤ板製の小舟に爆弾を積んで、敵艦目がけて体当たり攻撃をする「水上特攻隊」の訓練基地だったのです。
  舟の全長は約6メートル、全幅は約2メートル、高さ約70センチ。しかも、ベニヤ板製です。菅原さんは、この舟に乗って二度と帰ることのない特攻要員として、「海上挺身部隊」に配属されたのでした。「ああ、とんでもない所へ来てしまった!こんなことに命を懸けろなんてあんまりだ!」と絶望の淵に突き落とされたそうですが、それはあとの祭り。
  ところが、配属されて間もなく、近くの広島市に世界初の原子爆弾が投下されたのです!菅原さんたち2000名の海上艇進部隊の用員は、懸命に広島市内の被害者、負傷者の救助に当たりました。隊員は、大半が、15、6歳の少年兵であったそうです。広島市は想像を絶する惨状で、それはまさに地獄の様相でした。死者、負傷者、「水を、水をくださーい!」と絶叫する人々、やけどで死んだ母親の下で命守られ、泣き叫ぶ赤子!―――そんな負傷者の救助のために、特攻兵たちは、必死で働きました。
  それにしても、ベニヤ板の小舟に乗って敵の戦艦を沈没させようと、“特攻隊”を組む日本軍の愚、大型爆撃機で日本本土に人類最初の原子爆弾を投下して何十万人の命を奪ったアメリカ軍の狂気!まさに、人間の狂気の罪が生んだ歴史的汚点に間違いありません!
  それを思う時、人間の底なしの罪の深さを改めて痛感させられます。主よ、私たちを憐れみ、戦争の愚を繰り返すことのないように、私たち一人ひとりの心の内側に、どうか主のご愛と、平和の心をお与えくださいますように! アーメン!